2012年01月29日

にほんごとえいご

育児と銘打っているからには育児の事も書こうと突如として思ったのは、幼稚園に提出する書類に「育児について」を記載する欄があったのでひとしきり考えたからです。

ここ数ヶ月のブログ更新の滞りを一気に埋めてやろう!という意気込みw

子育て〜みたいな記事はこの辺とかこの辺とかこの辺にも書いたりしましたが、今日は着物とは関係のない育児の話。



うーんと。色々書きたい事があるのですが、まずは日本語と英語の話。
最近英語は小学校から科目に入ってきたりして、教育テレビでも「えいごであそぼ」とか、キッズチャンネルなるものでももうCMになっちゃあ「みっきまーうす、ぷるーーぅとぉ」てなかんじですごいですね。わが娘が入園予定の幼稚園でも週に二回英語の時間があると聞いています。

何を隠そうかくいう私は児童英語教材に関わる仕事に携わった事も二度ほどあったりして、何を隠そうかくいう私の実父という人は英語教育にうるさい人でした。(自分は色々やられた方w)

たとえばお風呂に一緒に入ったりすると、お風呂のおもちゃを取って欲しいときに英語で言わせたり、おもちゃを買いにいったら英語を話したり、一緒にセサミストリートを見せたりする人でした。(楽しい事や嬉しい事と英語を結びつけようとしてたんだと思う。)


そんなこんなでこんな本を持ってたりして↓ しかも後生大事に取っておいたというwまあ、そういうわけじゃないけれど物持ちはいいほうだしキティちゃんが好きだったから取っておいたものが実家の本棚にずっとあって、それを持ってきたというのが事実に近いんだけれど、

普段着物で家事育児してます。


この本はすごく小さいので私はどこかへ出かける時はかばんに入れて、電車の中や待ち時間に娘に見せて「りんごだねー」とか「はちさんぶんぶんねー」とか言いながら時間をつぶしたりしていたのですが最近娘はコレが英語である、ということが分かってきたらしいので「あっぽー」とかw言ったりもしているのですが、私自身は意識して英語を詰め込んでやろう!とか思った事はありません。私の夫と言う人も私立の小学校に行って英語教室に小学校から通っていたクチですが特にそんな気もないみたいです。


それよりも私が一番気にしているのは沢山本を読む子になるように、ということです。自分も本が好きだし、自分の家族も夫も本が好きなのでこれだけは多分自信を持っていえるけれど、本を読む事のすばらしさったらない!と思うしそういう楽しさやそこから学びえる数々の事を彼女にも経験して欲しいと思います。


ただ最近、絵本の事でひとつふたつ気になる事があって、これまたメンドクセーこというけど、正しい日本語で書いて欲しいの。っていうことです。とくに翻訳された絵本に多いような気がして仕方がないのですが…。

牛は いっぴき にひき じゃないーーーーー!!いっとう、にとう!!!
兎は いっぴき にひき よりも いちわ、にわ、って数えて欲しい。


グローバルな社会で生き残っていく為には、兎は一匹二匹でよかろう、牛も一匹二匹でよかろう、そんなことよりも英語に親しみ、英語を使いこなす子であって欲しい、と世の中のお父さん、お母さんは思ってるんだろうか、思ってるのかもなあ…と少し悲しく思う今日この頃であります。



こなつ

posted by 夏 小奈津 at 22:49| Comment(0) | 同居嫁・母・妻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

むふむふ。

雨の日の草履のことを書いたことがありましたっけ?(ある。)

そろそろ東京も雪が降ったりし始めましたね。去年の雪の日のお稽古はバスを乗り間違えて大変だったなあ…。

お買物をしました。
ご存知の通りだんしゃり中なので本当に色々なものを捨てています。だけど、これは必要!と思ったので買いました。


普段着物で家事育児してます。



実は、先日踊りの先生が「ぜん屋」さんの「つまさき美人」 → 訂正!! ぜん屋さんで売っている「美人のつま先」をこれ、オススメ!と言っていて、というのは多分劇場内で脱いだりできること、出先で晴れた時に雨草履を履いているよりは途中で取れると見た目がいいね、っていう話なので、私のように雨の日のお稽古に行って帰って来るだけなら普通に雨草履を買ってもいいだけの話なんだけど、雨草履も「つまさき美人」もとい「美人のつま先」も私にとっては安い買物じゃないので、いいや、下駄でってずーっと下駄でしのいで来ているわけなのです。(その下駄はコレ

下駄に普通の足袋を履いて出かけて、ついたら足袋を履きかえる、と。
でもまあ爪皮くらい持っててもバチあたんないよなあ。って思って。
作れるみたいなんだよなあって思って。


作っちゃおうかなあって思って。


そのバンビ風の毛皮を何につかうのかなーって思ってる人、いるかもね。
爪革ですよ、もちろん。もふもふのね。


むふんむふん(←意気込み。)



こなつ





posted by 夏 小奈津 at 22:18| Comment(0) | 着物と物欲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

寒いさなかの怪談…w

同居嫁の記事を読み返していたら思い出した事がある。

それはある夏の日の出来事であった…。



日本人なら誰でも畳の上にごろりとした時の気持ちよさが分からない訳がないだろうと強引にそう思う。きっとかつてこの経験をしたことのない外国人でさえ、一度畳の上に転がったらもう二度とその気持ちよさを忘れる訳はない、とすら思う。

我が家にも畳の部屋が一部屋あって、それはわが姑の部屋であり、この家をずっと守ってきた夫方の祖母の仏壇の置いてある部屋である。私の小さな娘は、物心もつく前から仏壇の前に行ったら手を合わせるようになった。一度は自分のハイチェアのステップの所に積み木を左右対称に置いて仏壇ごっこを始めたこともある。

あ、それはさておき。


私が嫁に来たばかりの頃、姑の母である祖母はもう齢も百を超えて俗に言う「寝たきり」の状態であった。声を出したり、体を動かしたりすることすらごくたまにになっていたけれど、私が祖母の所へ行き、義母が「おばあちゃん、ともちゃんのお嫁さんですよ」と話しかけると必ず「うー」とか「あー」とか言って私に話しかけようとするような気配があった。あれはきっと私を迎えようとしてくれていたのだと思う。(という事を前にも書いた。)


そう、その日はまだ娘が生まれていなかったのだからもう4年も経つのだろうか、5年ほども前かもしれない。私は夏の日に義母の部屋で寝るのが好きだ。多分その日も義母の部屋にコロンと横になってそのまま眠ってしまったらしく、義母が掛けてくれたバスタオルひとつで寝ていたと思う。


階段をトントントンと下りてくる足音がするが、それは夫の足音のようには聞こえないし義母の足音のようでもない。「ああ、だれか降りてきたなあ」と思うけれども目が開かない。暫らくすると、義母の部屋の入り口の襖の所で「アア、ほんとだ。ぐっすり寝てるね」とかなんとか話す声が聞こえる。その声は夫の声のようだなあと夢の中で思う。

でも、目が開かない。


すると、誰かが私の足をつかむ。
なに?と思う。だれ?と思うがちっとも怖くはない。
その人は私の両足首をぐっとつかんで、どうやらどかそうとしているみたいだ。
手の小さな人らしい。私の左足首のくるぶしのこりこりの下にその人の小指の爪が当たっているのが分かる。重くて持ち上げられないようで、ずるっずるっと私の足を右の方へずらしているような気がする。



なに?

だれ?




と思うけれども目が開かないし、体が動かない。














ふと、目が覚めてみると夕暮れで、二階からテレビの音がする。
上に上がっていくと義母と夫がテレビを見て笑っていて、私を見て「良く寝てたねー」と言う。
「降りてきたよね?」と聞くと
「?」
「足を動かした」
「行ってないよ・・・」
「こなっちゃん、寝ちゃったからあたしタオルだけかけて上に来たきり、誰も下にいってないよ…


え???



こうこう、こういうことがあって、と説明すると義母が「畳の縁の真ん中に寝てなかった?」と訊く。(たたみの縁を真ん中にして布団をしくと、「出る」という迷信がある・・・)
うーん、そうだったかなあ…。

「仏壇に足向けてたからかなあ…?そんなつもりはなかったけど、なんか寝てるうちに転がって…。そういやそんな感じで寝てた気がするんだよね」


「じゃあ、きっとおばあちゃんが仏壇にあしむけるんじゃないよーって直してくれたのかもね〜〜」


「そうかもそうかも〜〜〜」






そこで、夫は思い出したのだ。
そういえばおばあちゃんはなぜか右手の小指の爪を伸ばしていた、ということを…。




そういやうちのおじいちゃんも小指の爪伸ばしてたね…なんでだろうね
こなつ










posted by 夏 小奈津 at 00:30| Comment(4) | 同居嫁・母・妻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月28日

嫁姑翻訳機の話。



久々に同居嫁の事など書こうかなと思っておりますよ。


普段着物で家事育児してます。

着物は最近仕立てあがってきた着物です。義母が若い頃つうてもちょうど今の私くらいかもう少し若いくらいの時によく着ていた着物だそうです。帯は義母からもらった初めの帯で今の私の一番のお気に入りの帯です。帯締めは義母のを拝借w帯揚げがネットショッピングで買って失敗した!と思ったはずの納戸色。とても出番が多ございますよ。青緑色、というんでしょうかね。



さて、今では義母の箪笥を狙って嫁に来たんだろうと笑って冗談を言っている私たちですが、もちろん最初っからそうだった訳ではなくてよ。つか、今思えば私のほうが気負いすぎてたんだなあと思う。

些細な事でも姑に言われたら気になる事ってあるわよね。世間の嫁姑の問題はすべてそこから来てるんだよね。きっとそうだと思う。実際にそういわれた訳ではないのに言外の意味を読もうとして「あれれ?」となってしまうのね。


そういうのを「嫁姑翻訳機」と言うそうですよw
私も何をどうたどったのかあるブログにたどり着きまして、同居嫁という言葉に敏感な人はすでにご存知かもしれませんが。。。


私は「嫁姑翻訳機」の存在を知ったときにですね、わが身の語学力の達者さに目が回った訳なんですがwまあそれは冗談として、とにかく、あ、そっか、勝手に翻訳してたかも!と思ったのでとりあえずそれを取り除いた方がいいな、って思ったのです。それで意識的に直訳をアタマに入れるようにする。

でもね、これは私の個人的な見解ですがね、翻訳機にかける人、っていうのは基本的に同居に向いてる人だよね、と思う。それって相手が本当は何を言いたいのかな?って思ってるってことだもんね。そういう気持ちって本当はすごく大事だよね、って思うのよね。

ただ、そこで裏に裏に裏に行ってネガティブな方向に解釈しちゃったりするのが嫁姑の常なのでそこだけ注意しようぜ!って言いたい。勿論、お姑さんという生き物は、案外ネガティブな事言ってたりすることが殆どだったりするのかもしれないのだけどね。そこはもう、若い世代がいい方向にとるしかねえなっ!って、ね。頑張って!(←結局他人事〜〜??w)


でも、実際そうやって翻訳機を取り除いてみたら色々と思うところもあった。なんだ、なんだってあっけなく思う。そして、そうなってみると、実際、姑もすごく疲れただろうし、とても大変だったろうなあと思うのだ。大変なのは嫁だけじゃなくて、姑も大変なんだよ、って事と、大変なのは姑だけじゃなくて嫁も大変なんだよ、って事だよね。そこをお互いに分かりあえる事がすごく大事。

これはこうやって書いてしまえば本当に綺麗事のようだけれど、実際に生活しているとそんなんじゃないよね。その瞬間って本当に泥沼にいるみたいに大変なんだよね。
でももしその泥沼から抜け出したいなら試して見るべき。その翻訳機を今すぐ捨てろ!!

まずは捨てる。そして落ち着いて、姑が言っている事をまんま受け止める。

そうしているうちに、きっと姑の労をねぎってやってもいい、くらいに元気になる。そうこうしているうちに、きっと、実際に姑の労をねぎらいたくなる。→実際良く考えるとあり難い。→ ありがたい。。。本当にありがたいんだよ。


いま、嫁姑で苦労している人に、「いやぁ、姑って本当にありがたいよ!」って言ってもぜったい伝わらないと思うけれど、ちょっと試してみたらきっとたまに分かるようになって、そのうちすごく良くわかってもらえると思う。

自分を産んでくれた親とでさえ、喧嘩したり分かり合えない事があるのだから、姑と少し行き違う事があったとしても当たり前。血がつながっていないからこそ、喧嘩しないようにしよう、と思うから、分かり合おうと思うから労われることってあると思うのです。


そして、私が思うには、姑は自分の息子や娘よりも嫁をちょっとだけ多めに大事にすることと、嫁も自分の親兄弟よりも姑をちょっとだけ多めに大事にすること。これでちょうどなんだよなあと思う。


今日は実例が少なかったのでなんだか綺麗事ばかりを書いたようで気が引けますが、姑とうまくいかないんだよねー、どうやってるの〜〜?なんて人に聞かれて、「そうねえ…」なんつってかっこいい事を言ってきたばかりなので調子に乗って書きました。



いつかは自分も「姑」になるのか?
こなつより













posted by 夏 小奈津 at 23:51| Comment(6) | 同居嫁・母・妻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月05日

付け帯、つくり帯の話



昨今多くの人が着物の良さを見直し初めて、海外の多くの方が着物を愛してくれるようになりました。きっと前世で日本人であったに違いないと思うような外国のかたがたがいらっしゃいます。とても嬉しい事です。中には花柳界に籍を置く外国人の方がいらっしゃるという驚きのニュースまで。

芸妓さんや舞妓さんの可愛らしさと言ったらない、と思います。銀座ホステス24時とかそういう番組も大好き。美しい華やかな女性に憧れる気持ち、心ときめくと思います。でも、その仕事についている人たちには色々な事情がある方もいらっしゃること、そういう方々の覚悟までは私は本当は分かっていないのだとも思います。(この後、花柳界の方の事を書きますがけして他意があって書くものではありません。)


さて、付け帯とかつくり帯といわれる帯ですが、お太鼓や後見結びなど後ろで大きく締める帯を簡単に綺麗に「一人で」装う為の合理的なアイテムがあります。着物を着始めるのに一番やっかいなのは「帯」だと思う。きもののハウツー本を読んでも一番ページが割かれてるのってそこだと思うし、着物の着方の本というよりは着物の始め方の本であったとしても必ず頁がさかれているのが帯の締め方。半幅帯でいいんだよ、こうやって結んでみよう!お太鼓も慣れたら難しくないよ、こうやって結んでみよう!

そう、着物を着るのに帯はネック。本当にそう思う。だから綺麗に帯を結べないけどお太鼓帯をしたい、と思う人が作り帯から入門するということはあってしかるべき。帯が上手に結べないから着物を着る事から遠ざかってしまう、その事の方が悲しいと思うから。


私は作り帯が「入り口」として愛される分には一向に構わないし、むしろ大賛成なのです。

ただ、作り帯があるからいいよね、って結び方を覚えようとしなかったり、自分が持っている帯を切ってしまって平気でいるようなのがいやなの。

昔の人は帯だけは切ってはいけないと言ったそうです。帯を切ると命を縮める、と。迷信ですよね、そらそうだと思います。(ただし、エコな江戸時代、古くなった帯はきっと色々なものに命を変えていったはずだとも思う。でもそれは使えなくなった帯を生まれ変わらせる、から切ってるんだよね)


でも実際に帯を締めて生活していたらきっとみんな感じると思うけれど、帯を二重に巻いて、ぎゅぎゅっと締めるとき、本当に肚(はら)が守られている、と実感します。精神的にも身体的にも。それは、切った帯を体に巻きつけて細い紐で体よく結んで腰に飾るだけではぜったいに感じられるはずがないと思うのです。(実際作り帯を持っていますし締めた事もあります。観測で言ってるわけではない。)迷信、迷信というけれど、長いこと伝えられてきた事には絶対に意味があるはずだと私は考えます。なぜ帯はあの長さが必要だったのか、なぜ帯をああやって締めてきたのか、そこには長い着物の歴史の中で培われてきた「合理的な」理由が本当はあるんじゃないかと思う。


今着物は「伝えられていくもの」ではなく「学んでいくもの」になった。
帯の結び方も、着物の着方も、本を読んで写真を見て、中には学校へ行ったりして。着物を着て生活していたら自然に身につくことがあっても、洋服主流の現在は「テクニック」として習わないとできないことや知らない事が多い。
でも、本当は、着物を着ていく人は、かつては祖母から母へ母から娘へ伝えられたものをも自分のものにして欲しいのに、と思う。もちろん自分に対する課題でもある。


「時代の流れじゃない??」って言う人もいると思う。もちろんそういうこともあると思う。実際お太鼓結びだってかつては芸妓さんが結び始めた結び方だった。その粋な結び方を町の女性達が真似していまこの時代までやってきて、いまや着物といえばお太鼓結びを思い浮かべる人が殆ど。いつか帯は付け帯だけが生き残っていくのだろうか?
そうあって欲しくない。
お太鼓結びが生き残った事と作り帯が生き残る事は天と地ほどの差があると私は思う。

作り帯は「自分一人で帯を綺麗に結ばないといけない」状況が生み出した帯、だから。
粋だな、かっこいいな、と思った町の人たちが伝えてきた帯の姿ではないから。


ちょっと昔までは花柳界には見番があって、男衆(おとごし)さんがいて、置き屋のおかあさんがいて、芸を売っても身を売らぬ芸者衆は着物や帯が着崩れないように男衆さんやおかあさんに帯を結んでもらってお座敷終わったらそのまま帰って来ればいい。

普段着なら帯が少し崩れていたって誰も気にしないけれど、お座敷の花と呼ばれる着物姿の綺麗に結ばれた帯が解けた後、自分で後ろ手で結んだのは、きっと人目を引くはずだ。だから作り帯を締めるのではないのか?

もう一度繰り返すけれど、作り帯という存在そのものを否定しているわけじゃない。着物を着たい気持ちを帯の難しさより優先する為に。
でも、帯を切る時に一度考えてみて欲しいと思うだけ。本当に「たった一人で」着るのか?と。誰の手も借りられないの?と。そこまで綺麗に結ばないといけないの?と。

「そんなこと言ったって家族だって帯しめられないし」
普段着で帯を締めるなら半幅でもいいじゃないか、余裕が出来たらお太鼓を練習すればいい、そのうちできるようになるはず。昔の人はそうしていたんだから。
晴れ着に締めるなら、そんな時こそ人を頼ればいい。近所に二重太鼓を締められる人が一人はいるのではないか。いなければ美容院へ行けばいい。

一番厄介なのは「ちょっと洒落たトコへ着て行きたい」。綺麗に締めたい、家族は無理、人に頼むほどではない。そういうときこそ作り帯なのかもしれない。でも、私個人的には帯枕をちょっと上にのせるくらい手伝って!と家族に言って!と声を大にしていいたいし、ちょっと崩れてるくらい大丈夫だよ!と言いたい。本当は時間をたっぷりかけて着てみて!とか、前の日に練習してみたらどうかな?とか、そういうことも言いたいけど、それだから着物離れするんだと言われたら悲しいから言えない。でも、ちょっとしたトコに着物を着て行こうと思うくらい着物が好きな人なら、きっと前の日に少し袖を通してみる、帯を結んでみる、という事くらい苦にならないのかもしれない、と思いたい。


この世の中に「作り帯」が生まれた日、(もしかしたらあっさりと帯を切って作った人がいたのかもしれないけれどw)一人でひっそりと何事もなかったように結ばなければならなかった人がいたのだとしたら、作り帯を結ぶ時にはその人の覚悟を少しだけ想って結びたい。


今日は長々と書きました。

そうは言ってもお太鼓結びは難しいし二重太鼓はもっと難しいかもしれない。ささっと結んでくれる人なんてそばにそうそう居るもんでもない。作り帯は便利だよな、と思う。
でも、やっぱりね、「着物を愛する気持ち」でもって「帯は切っちゃいかんよ」と伝えたかったおばあちゃんたちの気持ちを汲む、そういうのも大事にしたい。下の世代に伝わって欲しい、と思うのでありました。



お直しばばあに確実に近づいていっている
こなつより

posted by 夏 小奈津 at 00:16| Comment(2) | 着物迷走録〜事件、意見、色々〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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